« 2008年12月 | メイン | 2009年02月 »

2009年01月 アーカイブ

2009年01月11日

パクス・ロマーナ

パクス・ロマーナ(ラテン語:Pax Romana (パークス・ローマーナ))とは、「ローマの平和」を意味し、ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和を指す言葉である。通常、アウグストゥスが帝政(プリンキパトゥス)を確立した紀元前27年から五賢帝時代の終わりである紀元後180年までを指す。

これから派生し、強大な国力を持つ一国の覇権(ヘゲモニー)による広域支配体制と、それによる内部の平和をパクス(またはパックス)を冠して称することがある。更に転じて、少数の国家の主導による平和の可能性も意味する。

パクス・アッシリアカ (Pax Assyriaca) - アッシリア帝国による平和
パクス・アメリカーナ - アメリカ合衆国(アメリカ帝国)による平和
パクス・オトマニカ - オスマン帝国による平和
パクス・ゲルマニカ (Pax Germanica) - ドイツ(ドイツ国)による平和
パクス・シニカ (Pax Sinica) - 中華帝国による冊封体制
パクス・シュメリカ (Pax Sumerica) - メソポタミアのウル第三王朝による平和
パクス・シリアナ (Pax Syriana) - シリアによるレバノンの安定
パクス・ヒスパニカ (Pax Hispanica) - スペイン(スペイン帝国)による平和
パクス・プラエトリアーナ (Pax Praetoriana) - 南アフリカ共和国の周辺国家に対する相対的安定性、優位性
パクス・ブリタニカ - イギリス(イギリス帝国)による平和
パクス・モンゴリカ (Pax Mongolica) - モンゴル帝国による平和
パクス・ヨーロピア (Pax Europaea) - 第二次世界大戦後のヨーロッパの平和

フェルト オレキ マッチ キャム プロポ オオセンナ パドルボ ダカー 国道18号線 ストー ヤン サンゴ ウェー ジグラート ないえ ショルダ イチゴ マリネ シュラフ デュポン ジェイペグ 古時計 スペクト ビージ レベル ゲッケイ カーン マエスト ツルウ オギジ レアメ スキーマ ネオジム ラズライ トリトマ ビレイ きあか スフィン レザー ジャムウ ファイ ファクト オキナグ ハイクラ ケフェウ ペクシ スノー チェンジ スケイ ダカール

2009年01月19日

ワンピース (衣服)

ワンピース(one piece)は、上衣とスカートが一緒となり繋がった女性向けの衣類をさす和製英語。「ワンピ」と略される。

英語の「one piece」は、水着・子供服・スポーツウェアなどの「つなぎ服」全般を意味する言葉であるが、日本で単に「ワンピース」と言った場合はアウターウェアの「ドレス」を指すにとどまっている。

また、ワンピースに対して、上下分かれたものを「ツーピース」、上衣とスカートとベストなど3つに分かれているものを「スリーピース」と呼ぶ。

特徴
ワンピースの形状は、上衣とスカートが一続きとなっているものだが、1枚の布から出来ているものとは限らず、上下が縫い合わせられていても全体として一続きならば、それはワンピースとして認められる。この点において、1枚の布で作られるという定義を持つ「ワンピース・スカート」や「ワンピース・スリーブ」のワンピースとは意味合いが違っている。

また、原則としてそれ1枚だけを着れば服装として成り立つものが「ワンピース」であり、別のトップスなどの上に着る「ジャンパースカート」や、別のボトムスと合わせて着る「チュニック」などは、形状が同様であってもワンピースとは区別される。

歴史
ワンピースは女性の服装として長い歴史を持ち、その時代の流行を取り入れながら、スカート丈の長さなどデザインを変化させつつ、現在も着用され続けている。20世紀に入ってからはツーピースやパンツルックも女性の服装として認知されるようになったが、依然ワンピースが女性の正装とされる傾向は強く残っている。

水着(みずぎ、swimwear、swimsuit、swimming suit)は、プールや海で運動、遊泳もしくは潜水用に着用する衣服のことである。水泳用、潜水用など様々な物があり、デザイン・構造や素材など多くの点で異なる。

水泳競技やフィットネスに用いられる水着。体を動かす支障にならないこと、脱げにくいこと、(特に競泳において)水の抵抗を減らすことが求められる。競泳用水着、スクール水着、フィットネス水着など。過去、競泳選手は水着自体による水の抵抗を減らすために肌の露出度を高める傾向があり、男子はブリーフ型、女子はハイレグ型が一般的であった。2000年代頃から水着の素材や表面の模様を工夫することによって、水着表面の抵抗が肌の抵抗を下回るようになると、首、手首または腕、足首を除き、全身を包み込む様な物等が普及し始め、長尺の水着を使用する事が多くなった。オリンピック競技などの水着はいわゆる新素材・ハイテク素材が積極的に投入されている。ライフセーバーにおいても同様の全身を包み込む様な物等が普及し始めているが、これらは危険回避や体温の維持などを重視した物が多い。

競泳用 - 基本的に「競泳用」と呼ばれるものは水泳連盟の公認を受けている。密着度・圧迫度が非常に高くフィットネス用途に比べると伸縮性が低い。抵抗が少なく身体の無駄なブレを防ぐが、耐久性は重要ではないため劣化が激しい。また、男子水着は女子と同じワンピース型を除き腰で履くことを想定されている。これは、腹にあわせてしまうと、水の流入方向、臀部と腹部の径の違い、動作による腹部の径の変化から密着性が損なわれ抵抗が増大するためである。このため臀部(臀裂)が若干露出する状態になることもあるが、着用する水着が既製品であるため避けられない。しかし、臀部(臀裂)が大きく露出する状態は臀裂と水着との隙間に入り込む水が多く、結果抵抗となる。また、極端に小さいサイズを着用すると大腿部や臀部の動作に制限がおきやすい。このような状態は競技には向かず、水着のサイズが合っていないと言える。男女ともに、小さいサイズをムリに着用することはこの2つのデメリット以外にも、素材が伸びすぎてしまい設計意図どおりの性能を発揮できないということもあり、サイズ選びは注意が必要である。
フィットネス用 - 競泳用に比べタイトではなく水中運動を楽しむためのもので、素材の自由度が高いためデザイン性が高い。ほとんどの製品が柔らかく伸縮性の高い生地を(部位・製品によっては二枚重ねで)使い、動きやすさ、着心地への工夫がなされている。形状としては競泳用に準ずるものが多いが女子用はセパレーツタイプもある。
水球用 - 競技特性上、滑りやすい素材を二枚重ねにしたり、表面処理を施しつかみにくく、破れにくくなっている。水球の稼動範囲の大きな動きに対応した、臀部の生地にゆとりがあるものもある。
マルバタ クロスレ シュール しばざくら アスク たいざん ロスカ チーズ 白爵南瓜 モルガ ユーボ 冬の星座 ライオン いろはに ピーク ハスカ リッペ リーズ ダイヤ 雪の駅 マネタ ファース グラス おくやま スピンオフ スカッド レンジャー レジスタ バルキー 寄居かぶ メキシコ へきぎょく ダージジ パサク はま スティン つるむら 京野菜 コリンズ プール ギミッ デカル マンネリ ハイガイド トークッシ ロンティー サイトバラ メガ最適 ミズム どうちゃく

遊泳用
男性はトランクス形式の物が多いが、女性はファッション性を重視し、ワンピースタイプや、胸部と下腹部にそれぞれ着用するビキニタイプといわれるものが一般的である。海岸での海水浴やプールなどでの水遊びのために用いられる水着。もっぱら見た目の華やかさ、スタイルを美しく見せることが重視される。特に女性用は各メーカーのファッションデザイナーが毎年、新作を発表し水着キャンペーンガールと呼ばれる女性達が広告宣伝を行っている(近年、キャンペーンガールを取りやめるメーカーも多くなってきた)。デザインや色・模様などはまさしく千差万別ではあるが、白のように薄い色合いの布地は水に濡れると透けてしまうことから(後述するような「見せるためのもの」を除いては)使われることは少ない。しかし2000年代頃より「透けない白」などと呼ばれる新素材を用いたものが登場している。

水用
シュノーケリングなど、主として水面で行われるレジャーとしての簡易な潜水の場合は、多くの場合遊泳用水着が用いられる。潜行を伴うスキンダイビングやスクーバダイビングでは、ウェットスーツやドライスーツが用いられる場合が多いが、水温が30℃を超えるような場合には、ダイブスキン(あるいはスキンスーツ)と呼ばれる、全身を覆う形状の水着が着用される場合もある。

ラッシュガード
主としてサーフィンに用いられる、低温、紫外線、擦過傷、あるいはクラゲ等の有害生物から身体を保護することを目的とした水着である。ウエットスーツの内側に着用されることが多く、また有害生物が内部に侵入することを防ぐため、伸縮性の生地を用い、身体に密着するようになっている。形態は男性用、女性用ともほぼ同じで、上半身は着丈の比較的長い長袖あるいは半袖、下半身はショーツ型である。素材としては身体の保護性能を高めるため、他の水着よりは厚く、目の詰まった素材が用いられることが多い。形態・素材の点で従来の水着と若干異なるため、商品としては水着とは区別して販売される傾向にあるが、用途や基本的な構造等の点では実質的に水着そのものである。全身を覆うワンピース型の商品は、特にダイブスキンと呼ばれる。

見せるためのもの
水着を着用して、水着を含む体全体を第三者に見せる事自体を目的とするときに用いられる水着。水着をファッションとして使用するため、デザインや肌の露出度の高さが水着本来の機能よりも優先されることが多い。水着キャンペーンガール、レースクイーン、ミスコンテスト、またはアイドルの水着撮影会のときに着用される。他にボディビルダーが極端に布地の面積の小さいビキニタイプの水着を着用する場合もある。水着との外見上での区別が難しい場合があるが、裏地の全く無いものや水に入る事を全く考慮していないものはレオタードになる。

女子プロレスラー用
女子プロレスラーの試合用コスチュームも、通例『水着』と呼称する。これはかつて、水着を改修して試合用のコスチュームとしていたことにより言い習わされたもので、現在でも新人は水着を改修したものを使用することが多い。

女性用水着

デザインによる分類
ワンピース - トップ(上半身)とボトム(下半身)が繋がっているタイプ。
モノキニ - バックのデザインがビキニのようなデザイン。
Aライン - ボトムにスカートがついたデザイン。
スリングショット - 2本のストラップだけで首からボトムまで連続しているデザイン。
ツーピース水着 - トップ(上半身)とボトム(下半身)がそれぞれ独立したタイプ。
セパレーツ - ビキニを抑えた感じのデザイン。
タンキニ - タンクトップやキャミソール型のトップとボトムが組み合わさったデザイン。
ビキニ - 布地が小さいデザイン。
三角ビキニ - トップとボトムが三角の形をしたビキニ。
マイクロビキニ - 最小限の部分だけを覆うビキニ。

トップ(上半身)のラインによる分類
ベアトップ - バストラインより上をカットしたデザイン。
ベアバック - 背中を大きくカットしたデザイン、バックレス。
ベアミドリフ - ウエスト部分を大きくカットしたデザイン、寸胴を目立たせなくする。
Vネックライイン - 胸元を深くカットしたデザイン、バストラインを美しく見せる。
ホルターネック - ストラップを首に吊るしたデザイン。
ワンショルダー - 片方のストラップをとったデザイン、肩幅の広さを目立たなくする。
ストラップレス - トップに肩ひもがない形のもの(英語の意味もそのままである)。胸の大きさが目立たないという長所がある反面、上からの衝撃には弱いという欠点がある。ビキニの場合はチューブトップとも言い、背中はひもでなく太い布とするのが一般的。また好みにより肩ひもが着脱可能なものもある。
センターストラップ - 肩ひもが首から胸の中央までV字になっているもの。これも胸が目立たず、可愛いという特徴がある反面、乳首と肩ひもの位置が一致していない為、やはり上からの衝撃に弱い。またチューブトップブラと組み合わせる場合、センターストラップとブラの下のワイヤが、胸の中央でX字に交差するデザインも見られる。
ワイドストラップ - センターストラップと逆で、胸の両側までハの字になっているもの。

2009年01月27日

山本 勘助(菅介)(やまもと かんすけ)

山本 勘助(菅介)(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。諱を晴幸、出家後道鬼斎を称したというが、信憑性はない。甲陽軍鑑では、勘介と記載。武田二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。武田信玄の伝説的軍師として講談などで有名である。架空の人物ではないかとの説もあるが、武田信玄書状に「山本菅介」の名があることから最近では実在した人物であるとの説が支配的である。近年の研究で、勘助は武田軍の伝令将校だったのではないかとする説もある。生没年は、『甲陽軍鑑』によると1493年 - 1561年という。生年は明応9年(1500年)説、文亀元年1501年説がある。没したのは1561年9月10日、川中島の戦いで討死したとされる。
キシラン ノート ローズ マッハ リボ デリバラ 田舎国 ゴマナ ゲート フォトモ ザンス カッコー コッチ チリン シャー タジーン メーカ ディング モード アップ クロゼ レイオ モラトリ ダイキリ サイリウム レセプト クオリア ロトロン シーラーズ プルマン タリフレ ハッチ カップ ブローシャー オレキシン タバーン ノード ビッシング ヒットラー タッチ きくま 深呼吸 ゾディア はつう パラコート マスコ 和銅 しちの トラック ビヨウ

勘助の生涯は江戸時代前期成立の『甲陽軍鑑』を元にするが、山本勘助の名は(戦後に発見された市河文書を除き)『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見えない。勘助の生涯とされるものは全て『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であると考えられている。各地に残る家伝や伝承も江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助にちなんだ後世の付会である可能性が高く、武蔵坊弁慶の伝承・伝説と同様の英雄物語に類するものとするのが史家のあいだでは通説である(実在を巡る議論参照)。

※甲斐国誌の山本勘助の紹介 甲陽軍鑑、北越軍談を引用している。

生誕地
『甲陽軍鑑』などには三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出とある。

江戸時代後期成立の『甲斐国志』[1]によれば、勘助は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)の吉野貞幸と安の三男に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入っている。大河ドラマ『風林火山』(NHK)もこの説を採用している。甲斐国志は、甲陽軍鑑、北越軍談の記述を引用している。

北越軍談では愛知県豊田市寺部(本国三州賀茂郡に帰り、という記述)。

日本中世史研究の第一人者で、静岡大学教育学部教授の小和田哲男によると、信憑性が低いとされるが、『牛窪密談記』に初出の[2]愛知県豊橋市賀茂(三河国八名郡加茂村)。

^ 甲府勤番支配の松平定能著・文化11年(1814年)成立
^ 他に『三河国二葉松』(豊川市下長山の住職の佐野知堯著・元文5年(1740年)成立、下長山は牛窪の隣)、『参河志』(西尾市の神官・渡辺政香著・元文元年(1836年)成立)

牢人
※「牢人」は「浪人」と同じ意味。江戸時代以前に主に使われていた。山本勘助の原典史料である『甲陽軍鑑』ではこちらが使われており、本項目でもこれを用いる。

勘助は26歳(または20歳)のときに武者修行の旅に出た。『武功雑記』によれば、剣豪上泉秀綱が弟子の虎伯と牛窪の牧野氏を訪ねたときに、若き勘助と虎伯が立会い、まず虎伯が一本取り、続いて勘助が一本を取った。しかし、勘助を妬む者たちが勘助が負けたと誹謗したため、いたたまれず出奔したという。上泉秀綱が武者修行に出たのは勘助の死後の永禄7年(1564年)以後とされており、この話は剣豪伝説にありがちな創作である。

勘助は10年の間、中国、四国、九州、関東の諸国を遍歴して京流(または行流)兵法を会得して、城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めた。後に勘助が武田信玄に仕えたとき、諸国の情勢として毛利元就や大内義隆の将才について語っている。

天文5年(1536年)、37歳になった勘助は駿河国主今川義元に仕官せんと欲して駿河国に入り、牢人家老庵原忠胤の屋敷に寄宿し、重臣朝比奈信置を通して仕官を願った。だが、今川義元は勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかった。勘助は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかった。今川の家中は小者一人も連れぬ貧しい牢人で、城を持ったこともなく、兵を率いたこともない勘助が兵法を極めたなぞ大言壮語の法螺であると謗った。兵法で2、3度手柄を立てたことがあったが、勘助が当時流行の新当流(塚原卜伝が創設)ではなく京流であることをもって認めようとはしなかった。勘助は仕官が叶わず牢人の身のまま9年にわたり駿河に留まり鬱々とした日々を過ごした。

勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に城取り(築城術)に通じた牢人がいると若き甲斐国主武田晴信に勘助を推挙した。天文12年(1543年)武田家は知行100貫で勘助を召抱えようと申し入れて来た。牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇であった。取り消されることを心配した庵原忠胤はまずは武田家から確約の朱印状をもらってから甲斐へ行ってはどうかと勧めるが、勘助はこれを断りあえて武田家のために朱印状を受けずに甲府へ赴くことにした。晴信は入国にあたって牢人の勘助が侮られぬよう板垣に馬や槍それに小者を用意させた。勘助は躑躅ヶ崎館で晴信と対面する。晴信は勘助の才を見抜き知行200貫とした。勘助は深く感服した。なお、『甲陽軍鑑』には駿河滞在は「九年」とあるが、駿河入国(1536年)と武田家仕官(1543年)の年月が7年しかなく、年数が合わない。

晴信は城取り(築城術)や諸国の情勢について勘助と語り、その知識の深さに感心し、深く信頼するようになったが新参者への破格の待遇から妬みを受けて、家中の南部下野守が勘助を誹謗した。晴信はこれを改易して、ますます勘助を信頼した。南部下野守は各地を彷徨い餓死したという。

同年、晴信が信濃国へ侵攻すると勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明した。勘助は100貫を加増され知行300貫となった。

天文13年(1544年)晴信は信濃国諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、これを殺した。なお、史実では晴信の諏訪侵攻と頼重の自害は天文11年(1542年)である。

頼重には美貌の姫がいた。翌天文14年(1545年)晴信は姫を側室に迎えることを望むが、重臣たちは姫は武田家に恨みを抱いており危険であるとこぞって反対した。だが、勘助のみは姫を側室に迎えることを強く主張する。姫が晴信の子を生めば武田家と信濃の名門諏訪家との絆となるであろうという思慮からであった。晴信は勘助の言を容れ姫を側室に迎える。姫は諏訪御料人と呼ばれるようになる。翌年、諏訪御料人は男子を生んだ。最後の武田家当主となる四郎勝頼である(勝頼の子の信勝が最後の当主になったという説もある)。

天文15年(1546年)晴信は信濃国小県郡の村上義清の戸石城を攻めた。戸石城の守りは固く武田勢は大損害を受けた。そこへ猛将・村上義清が救援に駆けつけて激しく攻め立て、武田勢は総崩れとなり撤退し、その間に追撃を受けて全軍崩壊の危機に陥った。勘助は晴信に献策して50騎を率いて村上勢を陽動。この間に晴信は体勢を立て直し、武田勢は勘助の巧みな采配により反撃に出て、村上勢を打ち破ったという。武田家家中は「破軍建返し」と呼ばれる勘助の縦横無尽の活躍に「摩利支天」のようだと畏怖した。この功により勘助は加増され知行800貫の足軽大将となる。この功績により、武田家の家臣の誰もが勘助の軍略を認めるようになった。なお、史実では戸石城攻防戦は天文19年(1550年)である。

立身した勘助は暇を受けて駿河の庵原忠胤を訪ね、年来世話になった御礼言上をして、主君晴信を「名大将である」と褒め称えた。

晴信は軍略政略について下問し、勘助はこれに答えて様々な治世の献策をした。優れた城取り(築城術)で高遠城、小諸城を築き、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。また、勘助の献策により有名な分国法「甲州法度之次第」が制定された。

晴信と勘助は諸国の武将について語り、毛利元就、大内義隆、今川義元、上杉憲政、松平清康について評し、ことに義元に関しては討死を予見した。後年、義元は桶狭間の戦いで敗死している。

天文16年(1547年)晴信は上田原の戦いで村上義清と決戦。重臣・板垣信方が戦死するなど苦戦するが、勘助の献策により勝利した。村上義清は越後国へ走り、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。以後、謙信はしばしば北信濃の川中島へ侵攻して晴信と戦火を交えることとなる。なお、史実では上田原の戦いは天文17年(1548年)であり、戸石城攻防戦の前である。また、村上義清は上田原の戦いで勝利して一時反撃に出ており、越後国へ逃れたのは天文22年(1553年)である。

天文20年(1551年)晴信は出家して信玄を名乗る。勘助もこれにならって出家して法号を道鬼斎と名乗った。史実では晴信の出家は永禄2年(1559年)とされる。

天文22年(1553年)信玄の命により、謙信に備えるべく勘助は北信濃に海津城を築いた。城主となった春日虎綱(高坂昌信)は、勘助が縄張りしたこの城を「武略の粋が極められている」と語っている。

『真田三代記』によると、勘助は真田幸隆と懇意であり、また馬場信春に対して勘助が築城術を伝授している。

これらの『甲陽軍鑑』に書かれた勘助の活躍から、江戸時代には勘助は三国志の諸葛孔明のような「軍師」と呼ばれるようになる。なお、『甲陽軍鑑』では勘助を軍師とは表現していない。

About 2009年01月

2009年01月にブログ「亜美のアイドル」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2008年12月です。

次のアーカイブは2009年02月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35