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2009年03月 アーカイブ

2009年03月04日

銭形金太郎

番組開始時は「ビンボーバトル」のコーナーのほかに「金太郎ジャンケン」「ああ、懐かしの貧乏生活」などがあったが、2002年11月21日の放送から「ビンボーバトル」のみの形式になった。

深夜時代には強烈なキャラのビンボーさんが人気になり、番組にも度々登場する人もいた。日野誠(スーパーアイドル、お笑い芸人)は番組のマスコット的キャラとして視聴者から愛され、中沢健(作家、芸人)、ギー藤田(映画監督)といった名物ビンボーさんが生まれた。

2004年11月10日からは水曜夜8時へ枠移動、初回は夜7時から2時間の拡大スペシャルで放送された。なお、テレビ朝日(2005年4月からは北海道テレビ放送も)では19:54?20:00にミニ番組「このあと銭形金太郎」という予告番組を放送していた。

当初から、NHK総合テレビジョンの「ためしてガッテン」やテレビ東京の「いい旅・夢気分」といった、サラリーマンや中高年齢層(主にお年寄り)を主対象とする裏番組には敵わなかったものの、フジテレビの「クイズ!ヘキサゴン」の司会者・島田紳助の謹慎も手伝い、同時間帯で3位を記録する回も多々あった。2005年4月6日に放送した初の3時間SPでは番組最高視聴率の19.7%を記録した。

その後も「ためしてガッテン」と「いい旅・夢気分」相手には苦戦し続けながらも、2005年10月以降はほぼ2桁台の視聴率を維持していた。

その水曜夜8時枠は日本テレビの「速報!歌の大辞テン!!」→「ミンナのテレビ」→「サルヂエ」の終了、TBSテレビの「水トク!」開始までの迷走、フジテレビの「ヘキサゴン」のルール変更・番組リニューアルに放送時間移行と様々な諸事情で追い込んだ。

枠移動と前後して2004年12月、番組に出演していた一般参加者が週刊誌にやらせを告発、実際にはスタッフの指示により強烈なビンボーな生活を装っていた事が暴露された。そして、「フリーターやニートを美化することになりかねない」等の批判や、日本PTA全国協議会から低俗番組のレッテルを貼られたこともあり、方向性のシフトを迫られることとなる。

コンセプトの変化
2005年中盤からはテコ入れとして毎回のようにサプライズゲストが登場するようになる。また、ビンボーさんもかつての売りだった「強烈ビンボー」よりも、何とかしてゲストと関係性が持てるレベルの人が多くなった。さらに、深夜で特徴的だった出演者の一発ギャグや前振りなどは大幅にカット、土田の「死ねばいいのに」発言も控えめになり、そのような雰囲気の場面はビンボーさん紹介の導入部「前フリ劇場」での有田と名倉のやりとり、総評時の有田と堀内のコントぐらいとなった。さらに、海外の動物園への取材など、ビンボーとは関係のない企画も増えていった。

ビンボーバトルその物も、“自給自足”ビンボーさんを主軸とした方向へと転換、かなり高齢のビンボーさんが多い。また、「ビンボーさんを紹介する以外の企画が放送時間の大半を占めてビンボーさんが1組しか出てこない」、「2組以上登場しても勝者を決めない」などが定常化し、スペシャル放送のみビンボーバトルをするようになった。

2006年7月以降は、若年層に支持を集めるフジテレビの「はねるのトびら」も裏番組となり、その高視聴率の煽りを受け、1桁に落ち込む回の方が多くなった。

番組の終焉
2007年8月からはビンボーさんを紹介する企画はなくなり、「天ぷら油号で行く激安店めぐり」や「銭金リサイクル」がメインコーナーとなり、深夜時代とは完全に違う番組となってしまった。2007年10月からは、「街でウワサのユニーク家族」を紹介する番組にリニューアル。「ビンボー」というキーワードや、それから連想される事柄自体が番組から一切消え去ることとなった。

10月以降、視聴率は前記の裏番組に大きく差を付けられ、1桁続きで低迷。 11月14日には当初は「愛のエプロン」と共にレギュラー放送の編成を予定してたが、「AFCチャンピオンズリーグ2007」で浦和レッズが決勝進出したことと同時に第2戦が埼玉スタジアム2002で行われることになったことや「愛エプ」「銭金」が近年の視聴率低迷もあった為、急遽、当初のBS朝日のみの放送から地上波・テレビ朝日系列全国ネットでも放送が決定した為双方の番組のこの日の放送を回避した。当日予定したスポンサーの殆どがスライドして番組提供をした。さらに翌週(11月21日)は「北京オリンピック・男子サッカーアジア最終予選」の放送があった為、2週も休止した。

2007年12月19日放送の2時間スペシャルでレギュラー番組としては終了した。最終回は、深夜時代も含めて全557組の中から強烈な印象を与えたビンボーさんを紹介、部門別に分けて大賞を決め、サポーターを務めた上田・有田・土田・大木・東がトロフィーを持って再度出向き、表彰とその後の様子などが語られた。

次番組は、ネオバラ水曜日に放送の『今すぐ使える豆知識 クイズ雑学王』。ネプチューンの新番組『ナニコレ珍百景』が代わってネオバラ水曜に収まり、実質的に放送枠交換という形となったが、水曜19時の『くりぃむナントカ』の視聴率の低迷により10月に昇格することが決まった。

なお、最終回、司会である名倉のコメントによれば、今後も特別番組という形での放送があり得る、とのこと。

] 歴代のコーナー
ビンボーバトル(銭金スタジアム)
「ビンボーさん」と呼ばれる、夢は大きいけれどお金に困って貧乏な生活をしている一般視聴者の元へ「サポーター」と呼ばれる芸能人がロケで取材し、審査委員長の堀内健とゲスト2人による3人の審査員の多数決によって、どの「ビンボーさん」が一番ビンボーかを決める。多数決で決まらなかった場合、審査委員長である堀内健の意見が優先される。 2003年1月30日放送分までは2人の対決で勝者に10万円、以降は4人での対決で優勝者に賞金20万円が贈られた。2005年には優勝者を選出せず、「紹介したビンボーさん一人一人審査員が判定、札が2枚以上挙がったビンボーさんには貧乏資金20万円を進呈」ということもあったが、また優勝者選出形式に戻った。

番外編として、ビンボーなテーマパークを応援する「テーマパークSP」や、過去に登場したビンボーさんのその後を調査する「ビンボーさんその後SP」や、半年間に紹介したビンボーさんの中から最優秀賞や各部門賞を決定する「ビンボーアワード」などもある。

番組内の特別番組としては、自給自足ビンボーに対してレギュラーサポーターとネプチューンらが皆で自給自足ビンボーさん宅へ1泊2日滞在する「銭金オールスターズ体験ツアー」という企画が3度放送され、それぞれ富良野、徳島、知床でロケを行っている。
ハンモ サイクロ ジャイル ダゴン ローツェ 夕立ち クフルト マーガ 白菜 エゴイ シプリン ヒート サテラ 黄昏 あくび ぞくげん スコール おきなれ プリスクール トーラス ブルー オートオオ レモンピー 天永 リュード フキ ギアシ ルクセン ジャイロ サイド ジェット ダックス フレア 四天王 マンゴー ピアニスト モヒカン ナビむつ デザイン キュー きつき ストップ じょうさい ヒヤシンス シュミナ リフネ メゾネット イング ダッシュ リング

金太郎ジャンケン
ビンボー娘(ビン娘)が原田泰造扮するキャラクター「銭形金太郎」と野球拳をして、勝ったらパネルの番号を言い、同じ賞品のパネルが2枚揃うとその賞品がもらえ、負けると水着になる、というコーナー。 ごく初期に放送されたが、視聴者からの「女性蔑視」との抗議により打ち切られた。

ああ、懐かしの貧乏生活
ゲストの貧乏エピソードにまつわるクイズコーナー。ごく初期のみ放送。

2009年03月19日

西洋絵画では、通常、壁画や天井画にはフレスコ画

西洋絵画では、通常、壁画や天井画にはフレスコ画の技法を用いる。しかしこのレオナルドの『最後の晩餐』はフレスコ画ではない。フレスコ画は古代ローマ時代から用いられており、漆喰を塗り、それが乾ききる前に顔料を載せて壁自体をその色にする技法である。この技法で描いた絵画は壁や天井と一体化し、ほぼ永続的に保存される。しかし、漆喰と一体化するため、使用できる色彩に限りがあり、漆喰を塗ってから乾ききるまでの8時間程度で絵を仕上げる必要がある。重ね塗りや描き直しは基本的にできない。

レオナルドは作業時間の制約を嫌い、写実的な絵画とするために重ね塗りは必要不可欠であることから(本作では白黒で陰影を描いた後、上から色味を重ねる手法が多用されている)、完全に乾いた壁の上にテンペラ画の技法で描いた。テンペラは卵、ニカワ、植物性油などを溶剤として顔料を溶き、キャンバスや木の板などに描く技法であり(卵を使用せず、油を主たる溶剤にすれば油彩となる)、時間的制約は無く、重ね塗り、書き直しも可能である。テンペラや油絵は温度や湿度の変化に弱いため、壁画には向いていない。

レオナルドは壁面からの湿度などによる浸食を防ぐために、乾いた漆喰の上に薄い膜を作りその上に絵を描いた。しかしこの方法は結果失敗し、湿度の高い気候も手伝い、激しい浸食と損傷を受ける結果となった。壁画完成から20年足らずで、レオナルドが存命中であった1510年頃には目に見えるほど顔料の剥離が進んでしまっていたことが、当時の記録からわかっている。


歴史 [編集]
500年以上もの期間、この損傷を受けやすい絵画は失われずに残っている。しかし決して保存のための注意が払われてきたわけではない。描かれた当時からこの部屋は食堂として使用されており、食べ物の湿気、湯気などが始めにこの絵を浸食する原因となった。

16世紀から19世紀にかけて、損傷や剥離部分について複数回の修復および剥離部分の書き足しなどが行なわれた。大規模なものは5回記録されている。19世紀までの修復は修復者のレベルにばらつきがあり、あまり良い結果を生んでいない。

過去の修復者は画面の剥落を防ごうとして、ニカワ、樹脂、ワニスなどを塗布したが、結果的にはこれらを塗ったことによってますます埃やススが画面に吸い寄せられ、画面は黒ずみ、レオナルドのオリジナルの表現はわからなくなっていった。また、通気性の悪くなった画面には湿気がたまり、カビの発生を招いた。さらに、こうして塗られたニカワや樹脂がオリジナルの絵具もろとも剥離する現象もおき、修復がさらなる破壊を生むことにもなった。18世紀の修復では大規模な補筆が行われ、レオナルドの表現意図がいかなるものであったかが次第にわからなくなっていった。19世紀の修復家は壁画自体を壁からはがそうとして失敗し、壁面に大きな亀裂が走った。

また、17世紀には絵の下部中央部分に食堂と台所の間を出入りするための扉がもうけられ、その部分は完全に失われてしまった。17世紀末、ナポレオンの時代には食堂ではなく馬小屋として使用されており、動物の呼気、排泄物によるガスなどで浸食がさらに進んだ。この間、ミラノは2度大洪水に見舞われており、壁画全体が水浸しとなった。

1943年8月、ファシスト政権ムッソリーニに対抗したアメリカ軍がミラノを空爆し、スカラ座を含むミラノ全体の約43%の建造物が全壊する。その際にこの食堂も向かって右側の屋根が半壊するなど破壊されたが、壁画のある壁は爆撃を案じた修道士たちの要請で土嚢と組まれた足場で保護されていたこともあって奇跡的に残った。その後3年間屋根の無い状態であり、風雨にさらされないよう、また、壁だけで倒れないようそのまま土嚢を積まれてはいたが、この期間にも激しく損傷を受けている。建物は設計図が残っていたため、そのまま復元された。
せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

制作当時に奇跡の絵画と呼ばれたが、以上のような経緯から、現在では存在自体が奇跡だと言われている。

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